アイキャッチ画像等は全てenvato elementsのイメージ素材か、生成AI(ImageFX)による出力結果です。
筆者なりの『生きかた千夜一夜』を綴っておりますが、記事にするアイデアが浮かばず、数週間過ぎることがあります。一方で、絶対に記事にすべきアイデアが怒涛のように意識に入ってきて、捌ききれず困ることもあります。
最近は、記事のアイデアが心に浮かび次第、スマホの録音アプリを使ってポイントを喋って置くことにしました。こうすると筆者の記憶からどんどん離れていく一時的な意識を冷凍保存して後で解凍して記事にできます。いわばアイデアのフリーズドライです。
本日のお題は
「転生に備えよう」
です。
筆者(無禄)も若い頃は「死ぬこと」の恐怖に怯えていたものですが、ある時期から人間の肉体死に関する知見がネットを通して洪水のように世の中に出回る時代になりましたことから、この「死ぬことの恐怖」から徐々に解放される機会が増えたといえましょう。
さて、人間が生まれ変わるなんてバカらしいとおっしゃる方々に、まずお伝えしたいのは宗教教義でもオカルト話でもない、全く科学的な認識です。
新陳代謝も肉体の死
人間が「死ぬ」ということに異常な恐怖感を持ってしまう私たちですが、一方で、私たちの肉体は実際のところ絶えず生まれ変わっているという事実があります。
一番早い部位は皮膚で、これは4週間で新しくなります。小腸などの消化管の内壁を覆う細胞は非常に早いペースで再生し、長くても5日で入れ替わります。赤血球の寿命は約120日です。骨も一生物じゃありません。だいたい10年もすれば骨全体が入れ替わってしまいます。
まとめて言えば医学的に立証されている事実として、人間は10年もすると、その体のほぼ全てが新しい細胞によって刷新されて古い細胞は死んでしまいます。それでも、私たちは自分の細胞がどんどん死ぬことに恐怖感は持っていません。なぜでしょうか?
もちろん、細胞の新陳代謝は、常に体全体でなく、ごく一部の入れ替わりであるから、細胞レベルの人間の部分的な「死」は全体に影響しないので痛くも痒くもない。部分的なら何も怖くないんです。
「死ぬ」ことが怖いという人間の意識を客観的に見てみれば、それは自分の肉体の全部が短時間に機能停止して元に戻らない。そして、新しい肉体も得られないという「緊急事態」に他なりません。
その緊急事態に私たちの肉体の脳はどう解釈して対処すればよいのか全くわからないわけです。
この緊急事態の解釈と対処ができるのは、肉体の脳を超越した意識だということになってくるわけです。そのレベルの意識は死ぬことを怖がりはしません。それは、あたかも、私たちが自分の皮膚が数週間で死んでいくことや、骨や筋肉が10年もすれば全部失われて入れ替わることを恐れないのと同じなのです。
肉体脳の本能と限界
中世ヨーロッパの哲学の巨人、エマヌエル・カントは、人間が世の中の森羅万象を受け入れることができる覗き穴のようなフレームワークについて世界で初めて明確な定義をした人です。
そのフレームワークを論理的に説明できたことから、カントの哲学は「神はいるのか」という疑問や、「宇宙は無限なのか」といった課題に対して明瞭な回答を出しました。
つまり、人間の理性はあらかじめ与えられた「時間と空間」というフレームワークから外にある命題について「理解することは出来ない」という機能的な限界を定義したのです。(カントの著書『純粋理性批判』)
カントの哲学は、非常に硬い文章で論理的に人間の理性の限界を示しましたが、このことについて、最近では、もっと柔らかい論理で人間の脳の働きである「マインド」を説明したエックハルト・トレが多くの一般の読者から賞賛されています。(トレの著書『パワーオブナウ』)
カントの言う通り、私たちは、死後の人格や霊的存在について「考えても無理」だと言う理性的見解を持っているので、このことへの恐怖感は解決できません。
そして、エックハルト・トレの言う通り、人間の肉体の脳は、自己防衛本能が強いので、死ぬことについては懸命になって人間に恐怖感を持たせるように働きかけて、最後には暴走して私たちの正常な生活感や人生感を破壊してしまいます。(このブログにアップされています。こちらも参照ください。)
カントが人間の理性の限界を説明して、そしてトレが人間の脳の機能的障害を説明してくれたのは良いですが、これでは私たちの死ぬことの恐怖は払拭出来そうにありません。
さて、ここから先は、非科学的な内容になりますが、これらは筆者が遭遇した様々な思想家や情報から筆者が受け入れ安いと感じるアイデアを書いてみます。
大海の一滴に希望を持つ
仏教思想でよくでてくる話に、「大海の一滴」という例え話があります。つまり、人間は大きな海の水の一滴としてこの世に生まれてきて、そして死ぬことで、もとの大海である大きな意識に戻っていくのだというわけです。
ひと一人の霊命は、壮大な高次元意識から飛び出した小さな火花の一つであるといった話は、あらゆる超自然的な話題に登場する話であり、ほとんどの場合は、この火花は地球上での生涯を終えるとまた大いなる意識に戻っていくという話です。
筆者は、こういった話を聞く度に、「死んで大海の一滴として、大海原に溶け込んでしまうなら、自分というユニークな存在は一体何の意味があるのか?」という、とても虚しい感覚に打ちひしがれていました。
さまざまな文献や資料を見ているうちに、高次元存在とアカシックレコードのような壮大な「叡智」についての記述を知ることになると、私の認識していた「大海」の意味が次第にはっきりしてきました。
つまり、大海というのは人智を超えた存在の象徴であり、そこには高次元の全知があって、この次元では、個々人の一つの人生という単位の情報は、ある意味では取るに足らないが、ある意味では、いつでも詳細に再体験・再認識可能だというわけです。
ですから、私たちは、死んで大海の一滴に戻っても、地球上で生きてきた一つかそれ以上の人生の記憶を失ってしまうわけでもなく、その人生は常に大海の中に生きていて、いつでも追体験したり思い返すことができると解釈出来ます。これがアカシックレコードなのだろうと思うわけです。
輪廻転生の解釈
人間の肉体死は、存在の終焉でなく数多く繰り返す人生の通過点だという説について石井数俊さんの動画を紹介しましたが、ここでは、肉体の死はとても軽く解釈されていて、大海の一滴の話もなく、当分の間人間の意識なり生命なりは転生を繰り返すという話になっています。
おそらく、転生するということと、大海の一滴は、全体としては同じ摂理の中で、違ったアングルから人間の生命を捉えたものなのだろうと考えられます。
このあたりの話になると、カントが提唱した通り、我々人類が持つ理性のフレームワーク(カントは文中で「フォーム」といっている)を超えているので、私たちの想像する内容もおそらくは無限にある可能性の中のごく少数の陳腐な解釈でしかないのだろうと思われます。
ドロレス・キャノンの書籍なども参照してまとめてみると次のようなバリエーションがあるようです。
- 霊性として非常に高いレベルに達した人間の霊命は転生せずに超高次元に昇華
- 上級レベルの霊命は偉人・聖人として地上の救世主を受け持つ
- 善人の集団は、より上級の霊命を目指して転生を続けて経験を積む
- 下級霊はカルマを払拭するまで転生して地上で利害の応酬に明け暮れる
- 悪霊や自殺霊は暗闇から暗闇に転生を続ける
これらを縦の広がりとして考えれば、横の広がりとして、地球人としての転生に止まらず、他の星団や惑星に転生するような場合も自由に創造可能である。
地上で生きる我々は少なくとも自分がどのレベルにいるかは把握して他界していくべきだろうと思うのですが、ただ、これを全て恐れることはないというのが筆者の考えです。
つづく
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