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企業で役員をしていた頃、その企業の株主に当たる大手多国籍企業の商業担当の重役と年末年始の面談や大きな商談の打ち合わせをする機会がありました。筆者は、この方については、とても人格の高い、信頼のおける存在と感じていたので懇意にしていました。
その重役は部長職と言いつつ、実質的には部門の役員クラスの力のあるかたでしたが、常に謙虚で明るいかたでした。
筆者はこの人物が筆者に話したあることを印象深く覚えています。この人は、私が所属していた企業を訪ねた際、その帰りには必ず近隣の駅ビル内で犬と猫を専門に扱うペットショップに立ち寄るのだそうです。このことは部下をひき連れていても欠かさなかったのです。
曰く、「ショーケースの中の子犬達をみていると、なぜか原点に帰れたような気になる」というのです。原点に帰るというのは、おそらく人間の本質的な生きかたを思い出す瞬間なんだろうと勝手に思っています。
本日のお題は
「人どうしの愛着」
です。
どうか、前回のお話しを読んだ上で今回の記事をご覧ください。
大人気の動物たち
どのような媒体の映像であれ、犬や猫、とりわけ仔犬が何匹かじゃれあっている映像を見ると、わけもなく仔犬たちへの強い愛着心がわいてきます。もちろん、映像ではなく、実際に仔犬たちが目の前にいれば、多くの人は多幸感さえ感じます。
この仔犬たちが絶対に傷付いてはならないといった母性本能とも防衛本能ともつかない感情、あるいは守護心というべき強い意識を感じるのは筆者だけではないと確信します。
この心情は、徐々に現れるのではなく、映像が目に映った瞬間に、瞬時に人の内面に復元されます。まるで、「まってました」といわんばかりに復元する感情を持つと同時に、何か言われのない幸福感さえ感じます。この時、私たちの脳裏には論理や大義名分は全く存在しません。大手商社の重役が「原点」と言っていたのはこのことでしょう。
ごく、単純にいって、これこそが人の内面にある「愛着」だと思います。これより複雑な話ではなく、これ以下でもないような根源的な愛着です。
とらえどころのないもの
筆者(無禄)は、文章を書くときに、単なる「愛」という単独の単語・表現を扱うのが苦手です。これだけでは、捉え所がなく、焦点を絞った内容を書くことが出来ないからです。
単独ではなく、別の字体と組み合わせて、人類愛、愛国心、愛着、慈愛、愛玩、愛好、寵愛といった表現ならOKなのです。
思うに、この「愛」という単独表現や、その「愛」がさししめすところの膨大な温かみや安心感の極みのようなものを、カントが定義した空間と時間のフレームワークの上で定義してしまうことは出来ないのだろうと思うのです。
しかたなく、別の方法でこれを表現するとなると、やはり前述の仔犬や、自分自身の子供に対して自然に出現する感情と意思がそれなんだろうというわけです。ですから、筆者は、「愛着」という単語を選んで使います。
ここで肝心なのは、これ以上複雑になってしまってはいけないということです。筆者の解釈では、「これ以上複雑」という余計な部分は、愛着ではなく執着や煩悩だと思うのです。
恋愛という試練と教訓
人間は生まれて育って思春期を迎え20歳、30歳になれば、他人に恋する経験をします。筆者も、この恋愛というなんとも扱いの難しい感情と衝動に何度も翻弄されてきました。
結果から言えば、反社会的なことや、相手の健康を損なう行為でなければ、人が恋愛を機会に何をするのも勝手ですが、人どうしの恋愛は、どうしたものか相手を必ず傷つける傾向にあります。なぜそうなるかと言えば、それは、私たちが人に恋するとき、前述の仔犬の映像をみて思う愛着心をはるかに超えるとんでもない期待感を持ってしまうから。
恋愛の心の中には、若さゆえの承認要求、所有欲、支配欲、完璧主義、等々のあらゆる執着が混ざり込んでしまいます。
例えば、恋愛中の男女間の会話で、「会いたくてどうしようもない」といった思いや発言は、とんでもなく自己中心的ですが、恋愛病にかかった人間にとっては、この思いこそが「愛の証」だとなってしまうわけです。ですから、スケジュールを調整して会おうとしてくれない相手に対する怒りと不満は例えようもなく強いものになります。
愛着心以上の複雑な執着をきちんと管理して人に接することができるのであれば、その人は、おそらく大人(おとな)なんでしょう。いつまでも執着する恋愛に溺れるのは生殖本能だけを振り回す獣の次元に止まった人格(霊命)でしかないわけです。
体を求める愛人関係
哺乳類として生息している動物である人間が子作りをすることは、生存本能が基盤になっています。その意味では、愛着心の無い肉体の交わりを行うことを否定するのは近視眼的です。無責任な行為が人間社会で禁忌になっているのは、出産の肉体的負担が重く、場合によって生命と引き換えになるリスクを伴うからでしょうし、人によっては単に肉欲の処理に利用されたと悟って傷つくことになるからです。
人間は還暦を過ぎる頃には、自分の肉主霊従(あるいは体主霊従*)的な側面をよく理解できるようになります。男女の体の交わりは動物の本能である性的要求を満たすために互いを惹きつける強烈な衝動に支配されますが、その実態は子孫を残す動物的な衝動だとわかることで、「霊主肉従」の境地に近づきます。これは人間の霊命が持つ優れた側面です。
もちろん、性欲というのは、人間が空腹になった際の食欲や、長くなった爪や頭髪を短くする行動や、排泄物を処分する排泄欲と同じものですから、自分の子供を扱うように、ある程度は相手をしてあげる必要があります。
愛人という単語には強い違和感を感じます。ネットで見られる愛人の検索結果では、愛人も、不倫と同様に既婚者がパートナー以外の異性と肉体関係をもつことを意味します。 しかし、不倫とは異なり、愛人関係においては相手に対して経済的援助をおこなうケースが多いとされています。ところが、今回の話題である人としての本質的な愛着はどこかにいってしまっています。体主霊従で性欲を満たすだけなら「愛」という単語は不要でしょう。
筆者は愛人も不倫も哺乳類の動物的行動として否定しませんが、自分の日々の生活にこれを持ち込むのは、あまりにもややこしい男女の意思疎通や経済負担を生じることが抑止力になっています。刹那的な欲求の解消の代償として大きすぎますし、ここに人間的な慈愛や愛着を求めても何も得られないでしょう。
*注記:「体主霊従」とは、日本の精神世界で活躍した出口王仁三郎が、その著書「霊界物語」などで頻繁に使う熟語で、人間が地上で生活する中で、肉体的要求ばかりに支配されて動物のようになり、精神世界にある人間本来の霊的主体が無視されてしまっている状態を表している。
子を育てて真理を学ぶ
現代社会では、もう結婚という文化に依存して成長するプロセスは必須では無くなっています。しかし、結婚という縛りだらけの文化が人の霊命に大きく貢献できることも残っていて、それは、育児の全てと子供の成長を実現しようとする両親の生活でしょう。
結婚していなくとも、ひとつの経済圏として同じ財布で同じ釜の飯で家族を体験する時、親が子に対して持つ愛着には理屈抜きの真理がありますし、自分では把握できていなかった原点の愛着心を発見するのは、子育てに他ならないのだと思います。
子供が育ってなんとか巣立って家庭を持つようになる頃、両親は恋愛と結婚生活の途上で自分たちが経験してきた愛憎と執着の試練や苦しみを思い、それらが全く無駄ではなかったとやっと納得できるというものです。そのあたりは、成人としてのバランス感覚ですが、この部分で人間どうしの愛着と無闇に関連付けたりして他人をひきづり回すのは意味のない行動です。
人間社会の慈愛
公式には異端となってしまう特殊な退行催眠療法で数えきれない患者を癒してきたドロレス・キャノン(催眠療法士・作家)は、人間が生まれて死ぬまでに成すべき課題について、「あくまで自分ができることをするのが使命」だと話しています。
出来ないことを無理にするのは、あるべき行動ではないという高次元の意図があるといいます。私たちが凡ゆる仕事を通して社会貢献して死んでゆく営みは、この考えと整合しています。
筆者が日本で見聞きした中で最も感銘を受けたのは、がんの末期患者をサポートするホスピスのような施設で働く看護士の話題です。日本の施設で、ある中年女性の末期患者が、ちょっとした痛みや苦痛で昼も夜も何度も看護士を呼び出して、長々と苦情を言うので、ベテランの看護士たちが困ってしまったのです。予命が短いその中年女性は、家族との対話もなく、孤独な中で自分の人生が終わることに少なからず悲嘆に暮れていました。施設の看護士に苦情を言うことでやり場のない気持ちを紛らわせていたのですが、同じ苦情を何度も聞かされる施設側も疲弊してしまいます。
ところが、ある日、看護士を学んでいる若い訓練生の女性が配属されてきて、その中年女性の苦情の連続をピタっと止めたというのです。訓練生ですから末期患者の扱いについてプロ並みの経験があるわけでは無いのですが、この若い女性位は患者さんに、あることをして患者さんの気持ちを大きく変えたと言うのです。
どういう事かいうと、非常に単純なのですが、苦情ばかり言う患者さんの「足を洗ってあげた」のだそうです。施設のメニューには足を洗うと言うサービスはないのですが、訓練生はなぜかその方法で患者に接することを試みたのです。足を洗ってもらった末期患者の女性は、苦情を言うのを止めて、その後の施設生活をにこやかに大人しく過ごしたというのです。
このことは、理屈ではなく、私たちが仔犬を見て原点に帰る心持ちを持つのと同じような人間の慈愛を感じさせます。訓練生は理論や知識だけでなく、人間への愛着を態度で示したのだと思うのです。
贈り物や知識を与えたり、金を渡すことだけが慈愛に満ちた行動ではない。自分ができる社会貢献は製造業でも、サービス業でも、サプライチェーン関連でも何でも良いのであって、何かしかの貢献をしていることを自認出来て、わけのわからない暗い世界に落ち込んで行かなければ、その人間は十分慈愛と愛着を持った生涯を歩む潜在能力があるのだろうと思うのです。
この記事を読んで、筆者が真面目ぶって偽善的であり、本心で話していないのではないかと疑う読者もいるかもしれません。しかし、筆者が恐れているのは、これまで多くの情報源から見聞きした、死後の真理にまつわる(非常に高い確率で正しいとされる)一つの伝承です。
人が他界すると、その霊性は生前よりもはるかに強く心の痛みを感じるようになるといいます。後悔や罪悪感は、地上にいたときと比較にならないほど深く自分自身を苦しめ、これらの感情は周囲の霊性からもすべて見透かされて隠すことはできません。また、人生を振り返る機会においては、関わったすべての人の心情までもが明らかにされます。そして、何よりもその人生を最も厳しく裁くのは、他でもない自分自身の霊命だというのです。
もし私が、勝手気ままに肉欲や禁欲のために他者を犠牲にしたり騙したりして生涯を終えれば、全ての報いが途方もない後悔と罪悪感の津波となって私の霊命に降りかかってくるのです。これほど恐ろしいことはありません。
つづく
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