65年以上生きていると、自分の中で、自分が体験してきた凡ゆる事柄について、納得のいく説明が揃ってくる。
ほとんどの人は、教師では無いので、自分が納得した真理を声高に人に伝えることはしないわけだ。
歳を取ると、必要のないことに無闇に拘ることは無くなるもんだ。
若い頃は、誰でも「恋愛」と「失恋」に悩む。悩むというのは、これは必要悪だ。怪我をして「痛み」を感じるのと全く同じこと。だから逃げようとして逃げられるもんじゃない。
太宰治のような文豪でも、恋愛に溺れて、自分の中で納得できずに、死のうとしたのは、ご存知の通り。
必ず通る道
筆者(無禄)に言わせれば、恋愛も失恋もセックスも不倫も、若干印象が異なるが、皆人間の経験の段階であり、人間が不動心で落ち着いた境地に到達する上で、必ず通過しなければならない関所のようなもんだ。生物学的には、人間が生物として種を保持して行くためには、無くてはならぬ人間の性(さが)だから、これで良いのだ。
生まれて数十年の初心者の恋愛には必ず失恋に繋がるし、破局するのは当然のことだ。運よく破局せずに結婚に繋がっても、夫婦生活の中で必ず恋愛の終焉がくる。
さらに困ったことは、筆者がここで何を書いて伝えようが、恋愛に落ちた人間は聞く耳をもたないし、破局など信じはしない。誰もが自分の恋愛こそがベストケースだと確信しておる。
それは、あたかも、目の無かった人が目を持ったような日々であり、手足の無かった人が始めて手足を持ったようなものじゃ。
そういう境遇と心境の人に向かって、「必ず破局する」といっても、相手は聞く耳など持ちはしない。
自分を止めてはいけない
では、どうすれば良いのか?
筆者の答えは、「今は何も悩まずに、思いっきり恋愛に溺れなさい。ただし、人や社会に迷惑をかけたり親を悲しませるようなまねはするな」ということだ。
失恋をして、苦しい人には、こういうアドバイスがある。
おめでとう、あなたは、今ひとつの峠を超えた。今はわからなくても、そのうちに必ず心から理解できる時が来ます。だから、相手への執着心を諦めなさい。あなたは何ひとつ失っていない。
人生には、他に沢山の修練がある。恋愛という一つや二つの体験は、60年、70年と人間をやっていくと、やがては、人生の思い出や記憶となって、懸命に生きてきた自分の心の中の無数に光る価値のひとつになってゆくものだ。それでも人生のほんの一部でしかない。
筆者は何度かの恋愛と痛恨の失恋の末に、社会人になってからの恋愛の延長で結婚している。子供が生まれる頃までは、全てがうまくいっていたが、その後の夫婦生活は、互いに重い苦しみの連続だった。何度離縁を考えたか・・・
子供が成人して社会に出て、生活は安定して家も貯蓄も残った。不健康にはならなかった、これは良いことだろうと思っておる。普通でいることは、案外難しいことだ。
最後まで考えてくれた読者に深謝申し上げます。
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