死後の「地獄」は本当に無いのか(前編)

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2010年頃から、ネットを中心に新たな伝承話が広まり始めました。それは「地獄」という概念の否定、つまり、さまざまな宗教教義で語られる地獄が実際には存在しないという説です。

筆者(無禄)も幼少期から地獄に関する伝承を聞きながら育ちました。社会に出て10年も経てば、自分の人生が完全に清廉潔白で、虫一匹も殺めていないという人はまずいないでしょう。

筆者も半生を振り返れば、多くの過ちを犯してきました。(幸い、刑法に触れるような罪を犯すことはありませんでしたが)そのため、死後に地獄に落ちる可能性は十分あるだろうと考えていました。

しかし最近では、「地獄は存在しない」と主張するインフルエンサーが増えてきています。これが事実だとすると、現世では法律に反しない限り、多少の悪事を働いても、死後に罰を受けることはないのでしょうか?

筆者は、数多くの書籍や特殊な能力を持つ人物たちからの伝承を通じて、「地獄」という概念について独自の結論に至りました。

この結論が読者の参考になればと思い、筆者(無禄)の考えをここにご紹介します。

前編と後編に分けています。この記事は前編です。

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免責事項

この記事には、読者にとって心理的なストレスを引き起こす可能性がある内容が含まれています。記事を読み進めることで発生する心理的影響については、筆者「よもやま無禄」およびこのブログ「生きかた千夜一夜」は免責とさせていただきます。

不安を感じた場合は、すぐに記事の閲覧を中止し、他の記事をご覧ください。

また、この記事の目的は、特定の内容を読者に教示することではありません。一人の人間としての視点から、「地獄」という概念を紹介しているだけであり、SFやファンタジー小説に近いものとお考えください。

この記事を他者に紹介することは自由ですが、引用や講義の素材として使用することは固くお断りします。

メディア発:地獄の情景

「地獄」という概念、その解釈や種類は非常に多岐にわたります。筆者は小中学生の頃、書籍やテレビ番組、映画などで日本文化における地獄の描写に触れながら育ちました。

当時は、血の池や針の山といった「視覚的に恐ろしい」場所が主で、棍棒を持った鬼が人々を追い立てて苦しめるといった情景が中心でした。

18〜19歳の多感な時期には、外国語を学んだり、交換留学で北米文化に触れる機会がありました。その中で「hell」という言葉を知り、英語の先生からは「欧米人に向かって ‘go to hell’ とは絶対に言ってはいけない」と教わったことを覚えています。

欧米の地獄表現は、日本のものに比べると非常に単純で、基本的には暗闇と燃え盛る炎というイメージが主でした。つまり、炎の中に人霊が投げ込まれるという、漠然とした地獄の表現です。

社会人になってからは、日々の仕事に追われ、地獄について考える時間は少なくなりました。「猛烈サラリーマン」という言葉が流行っていた頃は、毎日の残業やパワハラに耐え、現実の「地獄」を経験しているような日々を過ごしていました。

インターネットが普及し、パソコンを使うようになってからは、時折、ネットで日本の地獄についての解説や資料を、出典を気にすることなく目にすることもありました。

40歳を過ぎた頃には、企業を辞め、マレーシアで自営業を始めましたが、うまくいかず、日銭を稼いで食い繋ぐような日々を送っていました。

ある日、クアラルンプールの街中にある喫茶店兼休憩所で、台湾のお寺が発行している「地獄遊記」(台湾語で書かれていました)という大人向けの絵本を手にしました。

この「地獄遊記」は、日々の悪事によって、死後にさまざまな地獄に落ちるという戒めを込めた内容でした。本には、冥界にいる神が、地上の僧侶に自動書記で書かせたという解説がついていました。当時はAIによる自動翻訳は普及していなかったので、辞書を片手に興味深い内容に読み耽ったものです。(その書籍は人手に渡り、手元にはありません)

現在では、この書籍を手に入れるのは難しいようですが、台湾語で内容を読むことができるサイトがあります。

このサイトでは、文章はすべて掲載されていますが、オリジナルにあった地獄の絵図は掲載されていません。そこには何らかの理由があるのでしょう。

この「地獄遊記」に描かれた地獄の情景は、筆者(無禄)が66年の人生で目にしてきた中で、最も悲惨で、最もグロテスクなものでした。

筆者自身、こうした表現や情景を記憶に留めておく趣味はありませんし、そのため、詳細をここで紹介することはできません。(上記サイトを翻訳すれば内容を確認できます)

表現の限界からわかること

さて、いよいよ「地獄が実在するのかどうか」を考える上でのヒントを紹介します。

これまで紹介してきたような地獄の絵図や描写には、共通点があります。それは、すべてが「人間の想像の範囲内で描かれている」という事実です。どんなに恐ろしい情景や描写でも、それらが公表された時代の道具や文化の範囲を超えることはありません。

たとえば、台湾の書籍に描かれた残虐な描写も、現代の読者にとって未知の道具や概念は一切登場しません。すべては人間が「頭で考えて」想像したものなのです。これは日本の地獄絵図や欧米の地獄表現にも当てはまります。

仮に、人間が死後に異次元の世界に旅立つのであれば、そこに広がる環境や情景は、地球上の人類が理解し得ない未知の要素に満ちているはずです。しかし、これまで筆者が見てきたすべての地獄絵図は、完全に人間の想像の範囲内で描かれており、全く理解できないような描写は一切存在していません。

筆者は還暦を過ぎ、多くの地獄描写に触れてきました。広島の原爆被害を含め、地獄のような情景とされるものはさまざまです。しかし、どの地獄表現も、人間の発想力の限界を超えてはいません。

科学技術と地獄の表現

最近では、科学技術の進歩とともに、以前の人間の発想では思いつかなかったような情景や環境が、映画などで表現されるようになっています。

例えば、1999年にウォシャウスキー姉妹が監督し、キアヌ・リーブスが主演した映画『マトリックス』では、人間の本質が仮想世界に囚われ、実体は機械に管理されているという発想が描かれました。これは、ある意味で人霊が陥る地獄の一種とも言えるかもしれません。しかし、1999年以前の人間界では、この種の地獄の表現は語られていませんでした。

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また、現在の技術に基づく知識では、宇宙空間に生身の人間が放り出された場合、どのような状態になるかは大体想像がつきます。(ここでは詳細は割愛しますが、極めて過酷な状況です)しかし、こうした「真空の地獄」のような描写は、台湾の「地獄遊記」にも描かれていません。しかし、この「真空地獄」という地獄は、昔から存在しても不思議ではないはずです。

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「宇宙に放り出される」といったような「地獄」の種別が無いのは、地球の常識を超えた世界に存在すると言われる地獄の説明として、不十分ではないかと思われるのです。

「逆もまた真なり」

長く生きていく中で、若い頃に信じた説明や伝承の中には「胡散臭い」と感じるものがあることに気づくこともあります。これまで紹介してきた地獄の描写の限界も、この「胡散臭さ」に含まれるのではないでしょうか。

もちろん、親が子供に道徳心を植え付けるために、地獄の話を持ち出すことは「嘘も方便」と言えるかもしれません。しかし、道徳心を教えるためであれば、もっと説得力のある理論が存在します。(この点については後述します)

1945年に広島に原子爆弾が投下された時、人類はそれまで想像すらできなかったような破壊と苦しみを目の当たりにしました。被爆者は「本当の地獄を見た」と証言しています。

ある被爆者の話によると、広島が被爆した直後、多くの人々が水を求めて川へ向かって歩いていく光景がありました。しかし、その光景は「異様に静かだった」と語られています。人間が本当に極限の苦痛を味わうと、声すら出せなくなるのです。これが「本当の地獄」だと言えるでしょう。

ところが、地獄絵図や描写では、必ずと言っていいほど「叫び声」が描かれています。いわゆる「阿鼻叫喚」です。本当に瀕死の罪人が声も出ず無言で苦しむ情景はほとんどなく、地獄の苦しみは常に「叫び」とともに表現されます。これもまた、地獄の描写が人間の想像に基づくものである証拠と言えるでしょう。

これらの事実を踏まえれば、例え、シャーマンや冥界からの自動書記による伝承だとしても、地獄の情景や伝承が「真実ではない」可能性が高いことがわかってきます。

ここまで、地獄という概念に対するさまざまな視点を紹介してきました。次回は、地獄の概念についての最新情報を反映して、筆者の理解と考え方を述べます。

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