スピリチュアリズム否定は自然な意思

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本日のアイキャッチ画像は、香港のとある寺院の仏像群 ( Tian Tan Dao Fo (Giant Buddha), Hong Kong by imagexphoto, envato elements, all rights reserved )

筆者(無禄)が若い頃と比べると、現代のネット文化の中には、溢れんばかりの情報が流れており、その中には「人間の死後の世界」や「霊性としての旅路」の話が多数含まれている。

いわゆる「スピリチュアリズム」、あるいは「スピ系」の話である。

自称「霊媒体質」であるとか「シャーマン」だと名乗るインフルエンサーも何人も活躍している。

そして、こういった話について、真っ向から否定して「拒否反応」を示すインフルエンサーも存在する。

一体何が本当なのか?悩ましい命題に揺さぶられる読者やネット民も多いことであろう。

そこで、人生66年の経験で積み上げた筆者(無禄)の見解をここで明確に示しておきたい。同意するかどうかは、これを読んでいる読者次第だが、筆者は自分の理解と持論を持っている。

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否定論は人間として正しい反応

ある人にとっては、スピ系の話や話題には「触れたくもない」と感じることもあるだろう。

心霊学や霊体験などの話題は、常に疑わしいし、根拠に欠けるし、非現実的で、とりとめが無い。

筆者の見解を申し上げれば、スピ系否定論は、全く正常であり、もっともな理解・生き方である。

否定することは全く理にかなっており、そう期待されて良いのだ。

ここまで読んで、「ああ・・・、現実主義者か」と思われう読者も多かろう。

しかし、ちょっと待っていただきたい。 筆者自身は必ずしもガチの現実主義者ではない。

そして、人間の生涯においては、「正しい」とこと「本質的な」ことは、必ずしも一致しないのだ。

そのことをお話しする。

否定論:2つの視点

筆者が、スピリチュアル否定論を「もっともである」「正しい」と評価する理由は2つある。まずそのことを話そう。

否定論は正しい:理由その1

そもそも人間の出生(母親の胎児として発生して、この世に生まれ出ること)は、ブラックボックスで始まる。

馬や鹿のように、生まれれまもなく自立して立ち歩く動物とは違う。

人間の赤子が生まれた直後に活動できるのは、心肺を動かす自立神経や、最低限の視野を確保できる視神経である。それ以外には「何も知らない」し、それゆえに這うことも歩くことも食べることもできない。

人間という「自然」は、そのようにできているのだ。

やがて、赤子が四つ足で移動し、簡単な言葉を覚え、そして二本足で歩き出すのは、両親や周りの大人が懸命にこれを保護して育児を続けるからである。

不幸にも親に捨てられ、森林で野生の動物に育てられた子供は何年経過しても二足歩行には至らぬ。

つまり、人間というのは「学ぶ」生き物であり、その実態は「本能と直感」だけでは生きられない、大変厳しい前提を与えられているということだ。

それを克服したものだけが、現代でいう「まともな人間」として社会に浸透してゆける。

無知と無経験を克服して「まとも」になるために、人間は無数の「試行錯誤」をくり返して成長する。これも周知の事実だ。人間というのは試行錯誤の専門家であり、失敗から学んで生計を立てるプロフェッショナルなのである。

人間が他人を信頼できるようになるまでには、あらゆる試行錯誤が繰り返される。 image photo by envato elements. (all rights reserved)

そういう人間だから、「目に見えて、触れて、味わえて、感じられる」根拠の無いものは全て「まやかし」であるか「幻想」として捉える。多くの場合、この「まやかし・幻想」は個人に失望や危害を加えるものだから、人間はそういうものには強い警戒感を持つ。

通常の人間にとって、スピリチュアリズムや死後の世界や心霊体験の類の話題や教義は、日々繰り返される試行錯誤の中のひとつの警戒対象として映っていて当然なのだ。なぜなら人々はそれを「知らない」からである。

スプーン・フィーディング

筆者が、「スピ系否定論が人間のあるべき姿である」という理由は、スプーン・フィーディングの原則が基盤になっている。

スプーン・フィーディング (Spoon Feeding) とは、生まれて間もない幼児が、離乳食を食べ始める時期に、ナイフもフォークも箸も使わせずに、スプーンひとつで少しづつやわらかい食べ物を口にいれて咀嚼させる育児の手順だが、

この方法が、霊性世界が死後の世界を知らない人類に真理を説明する順序そのものと全く同じだというわけである。

image photo by envato elements.

スプーン・フィーディングの意思疎通を霊性世界の代弁者として明確に世に紹介したのは、米国の著名な催眠療法士、ドローレス・キャノン女史 (April 15, 1931 – October 18, 2014)である。

彼女は2014年に亡くなるまでの数十年の間、病に苦しむ無数の患者に対して「退行催眠療法」を実践して、世界中から称賛を受けた天才催眠療法士である。(彼女の催眠方法は現代医学の認証を受けていないので賛否両論ではある)

「退行催眠」というのは、専門の療法士が病気などの不具合に苦しむ患者を特殊な技法で催眠状態に誘導することで、その患者の現在の潜在意思のみならず、霊性レベルで繰り返していると言われる輪廻転生の体験を口述で引き出すという神秘的なものだ。

キャノンはこの退行催眠を数千回繰り返し実施してきたわけだが、その活動の中で、「何度施術して意思疎通しても同じ説明が返ってくる」内容があることに注目した。そして、退行催眠の意思疎通の中には「人間の霊性の真理」があるという結論を得て、膨大な記録内容を十数冊の書籍にまとめたのである。

キャノンの書籍には、こういう背景から非常に多くの人の退行催眠から引き出された人間の生死の本質に迫る驚くべき事実認識が綴られている。その内容は矛盾が無く、理にかなったものであったから、世界的な注目を集めたのだ。

キャノン自身は宗教者ではなく、神秘主義者でもない。彼女はあくまで「事実の探求」へのあくなき興味を追求した人物であり、催眠療法で得られた口述内容を、現実社会での記録と綿密に照合して、その内容に嘘がないことを検証したのだ。

残念ながらキャノンには医師の資格は無く、自身の書籍以外には、学術論文を残したわけではなく、個人情報である事実確認の内容を全て公表していないために、米国において権威的な評価をうけるまでに至っていない。

そのキャノンには悩みがあった。それは、事実の解明の難しい霊性の世界、死後の世界の本質について、退行催眠中に遭遇した意識体との意思疎通から容易に答えを得られなかったことだ。

「何故すべて答えてもらえないのか」

未知の意識体に問い詰めた結果得られたのが、件(くだん)の「スプーン・フィーディング」の説明なのだ。

曰く、人知を超えた高次元の世界の事実は、人間に知らせて良い内容と、知らせてはならない内容がある。しかし、徐々に内容を示していく必要はあるので、わかりやすい事実から少しづつ伝えていくことをルールにしているというのだ。

人には、本当に必要な時が来るまで本質を知らされない立場にあるという。 image photo by envato elements (all rights reserved)

この考え方は、理にかなったものであろう。どんな世界でも、いきなり難しい真実を突き付けられても、情報を受ける側としては、その価値を理解できない。理解できないものは無視するか否定するのが、試行錯誤を続ける人間の通常の反応だ。

地上の人知の及ぶ範囲で伝承されたものが、徐々に深い内容になっていくという段階を踏んでいるとすれば、このスプーン・フィーディングは、高次元と地上の人々の意思疎通の手段として「あるべき姿」なのだろう。

事実、筆者(無禄)が若かりし時代の情報と、今の情報とには、その深さには違いが有る。

スピリチュアル系の事実のすべてが、現代の人類にとって理解を超える領域である限り、我々人類は、まだスプーン・フィーディングのステップを踏んでいるのであり、無理に理解を強要する必要は無いのだ。3歳の幼児がフィレステーキや「すき焼き鍋」を食べて「美味い」とは言わない。

否定的であることは、むしろ自然なのだ。

否定論は正しい:理由その2

人間が想像しうるものは、必ず実現可能だという伝承がある。この考えに従えば、「霊界も霊性も存在しない世界」もまた一つの可能性とし存在する。

ある人物が、「人間は命を落とせばそれで終わり。人生は一度だけであり。転生などはありえない。」と言うなら、それはそれで1つの人間の意識・意思であり、尊重に値する。

万物万象を統べる神の世界があるとすれば、「死後の人間には何もない」というパラダイムも無限の可能性の中の「選択のひとつ」「オプションのひとつ」「可能性のひとつ」である。

可能性があるものを指し示して「真実だ」という論があるのは、スプーン・フィーディングで育てられている環境においては、けして間違った認識ではない。

知るも仏、知らぬも仏。 image pohto by envato elements (all rights reserved)

ここで重要なことは、そういう考えに自らの意識と意思を合わせて生きるのか、あるいは、そうではない可能性を自分の意思とするかを考えて生きていくことなのだ。このような選択肢がある中で、やみくもに自論を人に押し付けるべきではない。

天界と地獄を体験したとして、古くから有識者も認めたスウェデン・ボルグ (29 January 1688  – 29 March 1772) は、天界と地獄を経験したとされ、その著書の中で人間の本質には「性悪説」が関係していると述べている。人間はブラックボックスの記憶で生まれ、日常生活の中でスプーン・フィーディングされるように、悪やネガティブな世界をも経験しつつ、選択の自由を体験する、とされている。

こういった舞台設定になっている理由は、人間が「黒」を体験し、「黒い意志」を持たなければ、本質的に「白」の意義を理解できないという、究極の真理があるからだ。

だから、霊性の世界で学びながら成長するといったボルグが自ら体験した世界を「全否定」する立場も、やがて霊性の世界の本質を理解して真と善を自分の意思とするためには必要なのだとされている。

霊性の世界を全否定する人々も、いずれその否定が自分の成長にとって不可欠なステップであったことを理解する時が来る。なぜなら、それを体験しなければ、真の善と真理を自分の意思として選び取ることができないからだ。

霊性や高次元を否定することは、個々の選択であり、それは自由だ。だが、否定的に生きることで何が起こるのかを知るために人生を終え、その結果を味わうことになるのだ。逆に、霊性の本質や真理を求める者には、それに応じた体験が用意されている。

どちらが正しいかではなく、どちらを選ぶかは自由なのだ。そして、その選択の結果、どちらの道を選んだとしても、それを深く体験することで、自らの意思がどちらに向かっているかを理解することになるだろう。

疑いを抱くのであれば、自らの体験を通してそれを解き明かすことだ。人の意思を非難し、咎めるべきではない。

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