論説 新しい生き方の極意1

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この話に関する限り、純粋な情報源は、賢人が書き残した書籍しかない。だから、どこかの学校で「教わる」ことができない。したがって、筆者自身、この話を理解するのに随分時間をかける必要があった。その甲斐はあった。

これは伝承である。

ひとたび、この伝承を理解すれば、人の「生き方」に関する、あらゆる種類の問題解決の糸口が見つかる。個人的にも「生きやすい」人生を実感できるようになる。宗教色はないし、特殊なイデオロギーも含まれない。教育機関では教えていないのだが、この伝承は、人間としてごく自然な生き方の知識と修練なのである。

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厄介な生き物「痛み虫」

人の頭脳の中には、とても厄介な生き物が住み着いている。その存在は、ある種の習慣を身につけなければ実感できない。これは筆者の実体験でもある。

この「厄介な生き物」は、生物のような実体を持たない、いわば「異次元の存在」だ。「生き物」という表現が当てはまるのは、これが自分勝手な判断と目的を持っているからである。

専門家は、この生き物を “Pain Body”(日本語に訳すなら「痛み体質」といったところ)と呼んでいる。

ここまで読んで、「ああ、また地球外生物かオカルトの類(たぐい)か・・・」と違和感を感じるかもしれない。今しばらく、「エイリアン」や「オカルト」のイメージは横においていただき、最初の数ページだけでも読んでいただきたい。

まず最初にご留意いただきたいことがある。それは、この話が「精神疾患」の話ではないということだ。この話は、もっと単純で、ごく自然な日常生活に近い話だ。

この先、数ページを読んだ上で、違和感が消えないのであれば、読むのは止めた方が良いかもしれない。(興味を持てない文章を読むことほど苦痛なことは無いし、筆者の文章と相性が悪いのかもしれない)

筆者が「異次元の存在」として読者に紹介したいのは次のようなものだ。

この「厄介な生き物」は餌で釣ったり、網で引っ掛けたりして、物理的に捕まえることが出来ない。目で探して捉えることもできないし、写真を撮ることも出来ない。つまり、三次元空間の中の存在をイメージすることが出来ない。唯一、その存在だけが実感できるのだ。

例えて言えば、虫歯が痛むのに似ている。虫歯は口の中に発生するので、目視できないが、痛みは実感することができる。厄介な存在だ。

では、ここで紹介している「厄介な存在」は、どうすれば実感できるのか? 

幾つか例示してみよう。

世に言う「強迫観念」であるとか、「誰かに洗脳されている気分」、とか「何かに取り憑かれた感覚」といった類のもので悩まされた方がおられる。

あるいは、そこまで深刻では無いけれども、「何となく落ち着かない」「イライラする」「毎日が生きづらい」「何もやる気にならない」といったネガティブな感情や感覚を体験されている方もおられる。

これらは、全部「厄介な異次元の存在」だ。読者の皆さんも、ほぼ例外なく、実感できていると思う。我々はこれを「一過性」のものか、「気のせい」だとしてやり過ごしている。

しかし、これは一過性のものでも、気のせいでも無いのだ。放っておけば、悪化する。

筆者はこれを、「痛み虫」と呼んでいる。英語では pain body (ペイン・ボディー)と呼ぶのだそうだ。略して”PB”と呼んでも良いだろう。

普通の医者は、これを病気や疾患とは認めていない。医者が診療し始めるのは、もっともっと状態が悪くなって、まともに生活できなくなってからの話だ。(ある意味では、「手遅れ」になってから診療し始める)

「痛み虫」は、医者が関わる程の障害ではない。しかし、人間への影響ははっきりしている。誰にでも寄生してきて、うまく付き合わないと疲労困憊するまで人を苦しめる。だから、厄介な存在なのだ。

”PB” の存在を世界で初めて問題視して、広く世界に訴えた人物がいる。ドイツ生まれの思想家・著作家のエックハルト・トレ( Eckhart Tolle) である。

筆者は、トレの著作、”Power of Now” を何度も読み直して、ようやくPB の何たるかを理解できるようになった。

トレの著作を読み始めた頃、筆者が Pain Body に対して抱いた印象は、「ポジティブ思考で気の強い人間には無縁の存在」だ。ようするに精神的に弱い人間がこういう問題を抱えているのだろうという思い込みである。

ところが、この話を読み進めていくと、PB に放浪される人々の中には、ビジネスで成功した有力者や、国家レベルの指導者、そして、もっと広い視座で言えば、人類の殆どのが含まれているというのだ。

トレの説明を何度も読み直してみると、PB の問題は、人の「気の持ちようでどうにでもなる」ものではないことがわかる。精神的に強い人でも、この PB には手を焼いているのだ。

トレが力説しているのは、「本来、人類全体が正しく理解していなければならない」人間の「頭脳の使い方に問題がある」ということだった。

これは、宗教や道徳のように、何らかの善悪の概念を理解するといった話ではなく、もっと単純な意味で、「人体の機能としての頭脳の使い方」に重大な誤りがあるという話だったのだ。

一般に、「もっと頭を使え」といった人生訓や、「人より賢く学習しよう」といったノウハウの話は、いくらでも出回っているが、「あなたがた人間の頭の使い方には、重大な誤りがある」という話は聞いたことのない話である。

エックハルト・トレの生い立ちや来歴の説明は、別の機会にして、”PB” と人間脳の誤用について目的を絞った話を続けよう。

「考える」機能が引き起こすオーバードライブ

トレを含む複数の思想家や哲学者は、人間の頭脳の機能と役割について、興味深い「批判」を行ってきた。

ここで言う「批判」とは、一般的な反対意見や、敵対的な発言、誹謗中傷の類ではなく、「正当な探究心を基盤とする価値ある観察と評価」である。あるいは単に理論的な「分析と検討」といっても良い。あるいは、「傾向と対策の議論」であるともいえよう。

たとえば、哲学者のカントが残した「純粋理性批判」という名著のタイトルに含まれる「批判」の意味も、単に対象を攻撃する意図ではなく、一般的・歴史的・文化的解釈や理解に対して、徹底したケーススタディや、豊かな洞察力や、明解な論理を展開して、改めて「見つめ直しす」という意味である。つまり、純粋理性についての「分析と検討」であり、「傾向と対策」なのである。

PB(痛み虫)に話を戻そう。

我々人間の肉体の一部である、「頭脳の機能と役割」について、興味深い「批判」をした哲学者や思想家がいるのをご存知だろうか?(エックハルト・トレもそのひとりである)

彼らは、人間の頭脳をどのように批判して人類にフィードバックしたか?

結論から言えば、

人の頭脳は、非常によくできていて便利で、頼りになり、機能的でもある。だが、うまく扱わないと勝手な動きをする。そして、時には「暴走」する。

と言うことだ。

人間が自分の頭脳を管理出来なくなるという矛盾があることは、多くの人が苦しんでいる精神疾患の事例からわかっている。問題は、どこまでが正常でどこからが異常なのかを判断することが難しいということになる。こ

こでいう「暴走」は、精神疾患未満だが、正常な状態を逸脱している人間脳の勝手な振る舞いである。

暴走した頭脳は非常に厄介だということが解っている。厄介なので、「傾向と対策」の知識が必要なのだ。

有識者曰く、暴走している頭脳は、本来の頭脳としての利便性を失う。そして頭脳の持ち主の日常に支障をきたす。暴走している頭脳は、もはや便利ではなく、頼りにもならず、危険でさえある。

数分前まで大人しかった飼い犬が、突然牙をむき、低く唸りながら、血走った目で飼い主を睨んでいる状態だ。こうなってしまうと「百害あって一利なし」だ。

これは、筆者の「論」ではなく、著名な心理学者、哲学者、思想家が研究結果として人類に伝えてきた内容だ。

繰り返すが、ここでいう頭脳の暴走は、医学の分野で固定化した精神疾患の症状ではない。それに至る前の「疾患の前段階」であり、誰にでも起きうる日常的な「頭脳の働き」の延長線上にある「誤動作」なのである。

自動車の運転を例に説明しよう。

自動車というのは、とてもよく出来ているのだが、常に気をつけていないと、運転している人間が認識している以上の動きをする。

それは、人が一般道路で運転していて、いつもどおりアクセルを踏んでいるうちに、知らず知らずのうちに制限速度を超えてしまうような状態だ。

いわゆる「不注意」だ。「脇見運転」かもしれないし。「居眠り運転」かもしれない。

こういった問題は、自動車を運転している人間の意識が「車の運転をしている私」という立場から一時的に離れてしまった時に起きる。

別の意味では、「自動車が自動的に全てを安全に管理してくれる」というとんでもない誤解によって発生する問題である。

キーワードは「不注意」と「誤解」である。

人間の頭脳の(ちょっとした)暴走は、時と場合にもよるが、ほぼ、次のような瞬間に起きている。

  • 電車の中で赤子や幼児が泣き叫ぶ声が耳に入ってきて「イラッ」とした
  • レストランで注文した料理が出て来るのが遅いことに腹が立ってきた
  • 市役所や銀行の窓口で、係の説明が遠回しなので、イライラしている
  • 道路の信号待ちでイライラする
  • 会社の通路で歩いていて、他人とぶつかりそうになり、イラっとする
  • 締め切りが迫っている仕事や原稿が終わっていないことで、くよくよする
  • 日常のちょっとした不運や不祥事だけで、急に感情的になってしまう
  • 仕事場で話合いをする際、自論を非難されるとすぐ感情的になってしまう
  • 道で他人とすれ違う時に、他人がこちらの目を見ているのでイラっとする

しかし、この時、人間は自分の頭脳がきちんと働いていると「思って」いて、暴走しているなどとは思わない。いってみれば、危害を受けないように警戒しているのだから、防衛本能として「あるべき」姿だと考えるのが普通だ。有識者は、これが「誤解」だというのだ。

「イラっとする」のは、目の前の事象を人間脳が確認したことによる感情的な反応だが、このイライラの本質は、正しくは PB であり、PB が自己主張するのを許した人間本人は「不注意」だというのだ。

これに対して、統合失調症や鬱病の類は、例えば車のブレーキが効かなかったり、変速機が壊れていたり、エンジンがオーバーヒートしてしまった状態だ。車自体が故障してしまっているので、自動車整備工が出てきて故障を治さなければならない。これは、「病気・故障」を認識している状態だ。注意も不注意もなく、誤解も何もない。壊れているだけだ。

筆者が紹介する PB、別名「痛み虫」とは、頭脳の「故障」ではなく、「故障未満」の状態であり、「全てが正常に機能していると誤解している人間の不注意から起きる人間脳の誤動作」なのである。

正常に機能していると「思われている」頭脳の「暴走」や「誤動作」だから普通の人間も医者も、そばにいる第3者も誰かの「頭脳が暴走している」ことには気づかない。周りから見れば、これといって問題は感じられない。

したがって、このあたりの問題は、ほとんどの場合、「気の持ちようでどうにでも解釈できる」と言う話になる。

これが「万病の素(もと)」だと理解すれば、ことの重大さを感じ取れるようになる。

頭脳の誤動作を、「気の持ちよう」で看過するのは、問題解決を先送りしているだけで、真の原因を突き止めて PB を解消したことにはならない。先に事例を上げたような「イラっと」する頭脳や感情は、速やかに取り除くべき「厄介な生き物」なのだ。

頭脳の誤動作を制御する

トレに代表される、先進的な学者や思想家は、人間脳の故障の前段階を問題視している。本格的な故障に至る以前に、あらゆる被害を被っているという。

しかし、このような、人間脳の誤動作は、ある種の訓練をすることで、うまく対処することが可能だ。このための「傾向と対策」がある。

この「痛み虫」を退治する能力は、誰でも訓練によって体得できる本来人間が具備している能力なのだ。

エックハルト・トレ曰く、全ての人間は頭脳の誤動作や PB と向き合うことで、「人間に特有の悩みや煩悩を、医師やカウンセラーや薬の助けを借りずに解決できる」のである。

かく言う筆者も、西暦2005年頃、いったいこれが何の話なのか、何のためになるのか、全く理解出来ていなかった。

エックハルト・トレの名著である( Power of Now )に出会って、この PB(痛み虫)についての詳しい説明を読んだ頃、当時の筆者から見れば、このことはレベルの高い思想家や修行者だけが体得するような精神鍛錬や「悟り」のような話に思えた。

ところが、トレ曰く、人間脳の誤動作や PB についての対処法は、「将来、世界の小学生の義務教育に組み込まれるべきもの」だという。それほど単純で自然な知識だというのだ。

それを体得するには、ちょっとした訓練が必要なだけだという。

そこで、筆者はその訓練を受けてみた。

訓練を受けたといっても、トレの本に書いてある方法を自分で試して見ただけで、どこかの学校に行くでもなく、ましてトレ本人から訓練を受ける必要もなかった。

当初は、はっきりした成果を感じるでもなく、何年もの歳月が流れた。しかし、徐々にトレが提唱する訓練が筆者の日常に溶け込んできた。そして、ある時に、ようやくトレが「小学校で教えるべき」とした知識と、日々の訓練と、PB(痛み虫)の関係が筆者の意識の中で点と線のように繋がってきた。

こうして、筆者も、このPBの怖さとPBが起こす障害の重さを実感できるようになり、PBの怖さを知ると同時に、自分の頭脳や PBという生き物と、「うまく付き合っていく対処法」が体得できてきたのである。

対処法が身に着くことによって、「人間に特有の悩みや煩悩を、医師やカウンセラーや薬の助けを借りずに解決できる」というトレの説明が筆者の中で「腹落ち」したのである。

対処法の効果

もちろん、この手記を書いているこの瞬間(2024年6月)も、筆者はまだ、自分の PB を100%完全に退治しきれているわけではない。

この厄介な寄生勢力は、今も筆者の頭脳(肉体脳)に住んでいて、時として筆者の感情までコントロールする。しかし、その度合いや強度を数字で表現するなら、トレの本を読み始めた頃の PBの影響の 10分の1 程度まで下がってきている。このことの効果は絶大だ。

今、私自身は以下のように結論づけることができる。

ある程度時間をかけてトレの訓練を習慣的に行っていれば、PBの影響を最小限に止める事が出来る。このことは誰でも、実現可能だ。

エックハルト・トレが提唱した通り、これは小学生でも理解出来る知識と訓練だ。筆者はこのことを身をもって体験してきた。今思えば、自分の50年近くの人生経験が、むしろ、このことの理解にブレーキをかけていたのであり、小学生なら、もっとすんなりと理解したであろう内容でもあった。

全ての宗教知識や信仰とは全く無関係であるし、トレの教えや訓練は宗教教義ではない。

トレが教える訓練によって、PB が影を顰(ひそ)め、自己管理の新しい習慣が身に付くことは、全人類への朗報と言えそうだ。

逆に、このことを知らないまま、人の内面に寄生する「痛み虫」を生かしたままの人々が、この地球上で数多く存在し続けていることは、極めて危険で恐ろしいことになる。

そして、この手記の目的は、トレの訓練法と、「痛み虫」の対処法を日本語で書き残すことに他ならないのだ。

次回は、トレの訓練法について、具体的な紹介と解説を進める。

この続きは、「新しい生き方の極意2」を参照ください。

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